地域の分断
さて、この二年間の日々を振り返る際、私の胸に繰り返し浮かぶ言葉があります。それは「分断」という言葉です。
原発事故によって、福島は幾重にもわたって引き裂かれました。原発の二〇キロ圏内、三〇キロ圏内と圏外、避難地区からの避難者と彼らを受け入れた地域の住民、さらにはそこから県外へ避難した人たち……。家族が離れ離れになった方々が大勢います。
しかし国の施策はただでさえ分断されてしまっている人々を、さらなる分断に追いやる「分断政策」になっているのではないか、と私は危惧しています。
象徴的なのが原発立地市町村の一つである双葉町の状況でしょう。
昨年一二月、双葉町では井戸川克隆町長と町議会の対立から、町長の不信任案が可決されました。今年一月に井戸川町長は辞職。ICPRが定める年間一mSvを達成できない限り帰還は認められないとする井戸川町長に対し、中間貯蔵施設の受け入れや除染について原発立地八カ町村で足並みをそろえるべきだ、という議会の主張がぶつかり合った結果でした。
そんななか、双葉町の「復興まちづくり委員会」の有識者委員である私は、同町への帰還可能時期の推定を依頼され、町の汚染状況を調査することになりました。そこでゲルマニウム半導体検出器という高性能な装置で計測すると、双葉町内には未だ酷い汚染地域が多くあることが分かってきたのです。
特にセシウムやプルトニウムを濃縮する地衣類は汚染度が高く、キログラムあたり、どれも五〇万ベクレル、高いもので三六〇万ベクレルという凄まじい数値が出ました。
地衣類の繁殖する場所は、小さな子供が好んで遊ぶ路地裏や日陰に多くあります。そのことを考慮すれば非常に危険であり、場所によっては毎時二〇μSvを超える地域もある。同じ地域の墓地では六〇μSvを超える場所も存在しています。それが事故から一年七カ月経った時点での町の現実なのです。
双葉町の最も汚染度の高い地域を基準とすると、土壌に放射性物質が沈んでいくことによる自然減衰を考慮しない場合、一時間当たりの空間線量が〇・一μSvになる時期は約一六五年から一六九年後という試算になります。
このような高線量の地域を除染したところで、果たしてその推定年数を変えることができるのか。さらにセシウムだけではなく、ストロンチウムやプルトニウムは原発直近の町で濃度が高い可能性もあります。それらの危険性をきちんと証明する前に、「帰還可能」という決定を軽々しく言うべきではない、というのが私の現地を調査しての結論でした。
一方で双葉町には福島市内や郡山市内よりも線量の低い地域があるのも事実です。では、汚染レベルが地域によって異なる中で、それを「いますぐに帰れる地域」「数年後に帰れる地域」「当分帰れない地域」に分けてもよいものなのでしょうか。
決断するのは最終的に双葉町の方々だとはいえ、こうした帰還のやり方は町の「分断」をより深めるに過ぎないと私は考えています。同じ地域の中に帰れる人がいる一方で、帰ることのできない人がいる。そこに賠償金の金額の差が生まれ、住民同士のいがみ合いがさらに生じてしまうのだとすれば――。果たしてそれは双葉町の人々の望むことなのでしょうか。私にはそうは思えません。
一部の有識者の中には「それでも帰りたい人たちを無理に引き止める必要はない」という意見もあります。しかし、実際に帰還を強く望んでいるのがお年寄であることの意味を、まず私たちは考えなければなりません。
町に誰かが戻れば、医療、警察、消防などのインフラを担う人々が必要となります。その担い手の多くが若者である以上、お年寄の帰還は若者の望まない被ばくを生むことにつながってしまう。国の政治家は簡単に「責任」という言葉を使いますが、現実には将来的に健康被害が発生したとき、その責任を本当に取ろうとしている人、取ることができる人は誰一人いないのです。もっとも質の悪いのが、有識者や学者です。自身の得を考え、無責任に国にとって都合の良い美辞麗句を並べ立て、世間を煙にまいているようにしか感じません。勇気を持って真実を伝える――帰還可能時期の推定を行うに当たって、私はこうした議論を住民の方々と交わしました。
昨年一二月一一日の第六回委員会でこの調査結果を伝えた際、町のみなさんは意外なほど冷静でした。中学生や小学生、さらに小さいお子さんを持つ方々からは、「帰れと言われても帰ろうとは思わない。専門家の意見が出たことで、私たちは安心しています」という声がありました。また、「まだ一縷の望みはあったけれど、これではっきりした。この事実を踏まえて、我々も考え方を変えなければならない」と仰る方もいました。