一昨年の三月、稲福由梨さんは東京で結婚式を挙げた。相手は八年前に神奈川県から福島県田村市滝根町に移り住んだ和之さん。二人は同市で新たな家庭を築くつもりだったが、震災によってその予定は大きな変更を迫られた。
「就職先も決まっていたのですが、結局、私だけ東京にしばらく残ることを決め、一年間は別居生活を送りました」
管理栄養士の資格を持ち、東京では学校給食関係の仕事をしていた由梨さんには、いつか農家民宿を始めたいという夢があった。
「以前に食事制限が必要な病気になった時期があって、旅行に行っても食事が楽しめないのがつらかったんです。管理栄養士の資格を活かして、そうした人たちでも満足できる食事を出せる宿ができたらいいな、って。農業体験もできるようにして、日本の農業の素晴らしさを同時に伝える宿を作りたかったんです」
そんななかで参加した農業体験プログラムで滝根町を訪れ、和之さんと出会った。原発事故によって抱いてきた夢の実現が遠のいてしまった、という思いは確かにある。それでも彼女が一年間の別居生活を経て滝根町で暮らすことにしたのは、この町に残りたいという和之さんの気持ちが痛いほど分かるからだった。
和之さんは八年前、NPO「緑のふるさと協力隊」のボランティアの一員として、滝根町の森林組合で一年間働いた。そこで知り合った農家の生活を気に入り、町への移住を決めた。
以来、冬になるとスキー場で働き、春から秋にかけては自給自足の生活をしてきた。彼にとって二〇一一年は、準備してきたブルーベリーやシイタケが収穫可能となり、いよいよ本格的に農業で生計を立てようとし始めた特別な年だった。
「シイタケは出荷できなくなり、前年までの実績がないためブルーベリーについても補償金は出せないと東電から回答がありました。ただ一年の間、線量計でこの辺りを測り続けた結果、自分の畑や田んぼは線量が低いことが分かってきたんです」と和之さんは言う。
「作物も全て一〇ベクレル以下なので、私は続けられると判断しました。何よりこの八年間で地元に仲間もできた。線量の高い場所に家があり、戻りたくても戻れない人たちがたくさんいます。それなのに『できる』と判断した自分が離れてはいけない、と思ったんです」
何度も話し合い、由梨さんは「ついて行こう」と決めたそうだ。
作物は思うように売れず、現状は厳しいと和之さんは話す。それでも地元の仲間とともにブルーベリーの加工場建設に出資し、少しでも前に進む方法を模索しているという。
「残って農業を続けようとしている人たちの結びつきは、震災があってからより強まっているように感じます。その中で自分たちが正しいと思うことを、今は一つひとつ続けていくしかありません」