【図2】 ヒエロニムス・ボス 《快楽の園》左翼 1505-16年頃 板 油彩 プラド美術館蔵
では、その影響は美術にも見られるのでしょうか。明確に、リリスの誕生を描いたとわかる絵は知られていません。唯一、「もしかしたらそうかも」とされるのが、ヒエロニムス・ボスの《快楽の園》。三連祭壇画の左翼の楽園図【図2】の「女」をリリスと唱える論文があります。ボス特有の奇怪な獣が蠢くなか、創造主とひと組の男女が描かれています。左にいるのは生まれたばかりのアダムでしょうか。
創造主が女の手首をもつポーズは「エバの創造」場面でよく見かけますが(連載第5回参照)、よくある構図と違うのは、この女が、眠ったアダムの脇腹から生じていないことです。膝が折れた不自然なポーズで体を浮かべています。アダムも眠ってはいません。地面に座って、女が生まれるのを眺めているようすです。
創造主の両脇にアダムとエバを配する構図は、「アダムとエバの結婚」というテーマにしばしば見られます。13世紀以降の写本挿絵に見られる主題で、【図3】のように、神を司祭に見立てて、アダムとエバが向かい合って立っているのが特徴ですから、ボスの男女はそれにあてはまりません。
【図3】 フラウィウス・ヨセフス 『ユダヤ古代誌』 ブルージュ 15世紀末 パリ国立図書館蔵
膝を折った姿勢で手首を引っぱられているポーズは、ボスによる他の楽園図(たとえば《最後の審判》祭壇画の左翼【図4】)でも、「エバの創造」場面として描かれているので、これを創造場面と解釈して良いと私も思います。問題は、「女」が地面から生え出ているように描かれていることです。件の論文は、【図2】の女を「土」から生まれたリリスとしています。そして、ボスがここにリリスを描いた理由を、《快楽の園》の中央パネルで極まる淫乱の罪の描写へのプロローグとして、性にまつわる妖魔を配したと説明しています。
でも、腰まで長い髪のあるこの女が、赤子を貪り喰い、夜な夜な独り寝の男を誘惑する妖魔リリスとは、私には思えません。
【図4】 「楽園」 ヒエロニムス・ボス 《最後の審判》左翼 1504-08年 板に油彩 ウィーン美術史美術館蔵