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アダムの前妻 「リリス」|キリスト教美術をたのしむ 金沢百枝
 リリスの存在は、キリスト教の聖書注釈では一般的でないので、美術に登場することはきわめて稀。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院聖堂回廊の壁画【図5】が私の知る限りで、唯一、明確に「リリス」とわかる作例です。初期ルネサンスの画家ウッチェロが描く「動物の創造」場面。居並ぶ動物たちの中に女性の横顔があるのですが、そのおでこにラミア(LAMIA)と記されています。

【図5】パオロ・ウッチェロ 「動物の創造」 サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院聖堂 「緑の回廊」 壁画 フィレンツェ 1424–25年
【図5】 パオロ・ウッチェロ 「動物の創造」 サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院聖堂 「緑の回廊」 壁画 フィレンツェ 1424–25年

 ラミアはギリシア神話に登場し、リリス同様、新生児を貪り食べる怪物です。旧約聖書がヘブライ語からラテン語に訳された際、「イザヤ書」第34章14節の「リリス」の代わりに「ラミア」の語があてられました(新共同訳では「夜の魔女」)。ウッチェロの「女」はラミア=リリスなのでしょうけれども、なぜここに描かれたのかはわかりません。
 ギリシア神話のラミアは、下半身が蛇。ひょっとすると、前回話題にした、少女の顔をもつ「蛇」と関連があるのでは…と思いたくなるのが人情というもの。「アダムとエバの結婚」の作例【図3】をもう一度見ると、堕罪以前の楽園で結婚を寿ぐ動物たちの中に怪物の姿があります。手鏡を持つ人魚。木陰から顔を覗かせるドラゴン。ちょっと離れた場所には、薄幸そうな蛇女が佇んでいます。

 キリスト教では影の薄いリリスですが、13世紀末から14世紀初め頃の書かれたユダヤ教の著作では、悪魔の王サマエルの妻として、悪の女王にまで登りつめています。

 ユダヤの伝承にリリス的なものが現れたのは、紀元後2世紀から5世紀にかけて。その起源となる悪魔のひとりアルダット・リルの名は、紀元前2400年頃のシュメールの粘土板にも刻まれています。アルダット・リルは元来、嵐の神でしたが、「夜」という語と音が近いことから、夜な夜な男たちを籠絡しては精液を搾り取る夢魔となりました。同じく男を襲う女悪魔ラマシュトゥとの習合もあったことでしょう。先に挙げた『ベン・シラのアルファベット』でも、「ぷいっと飛んで行ってしまう」ところに、嵐の神だった頃の名残りがあるように思います。鳥の翼をもつ嵐の神は、自由に飛べるからです【図6】。

【図6】リリス(?) シュメール粘土板 紀元前2000年頃 大英博物館蔵
【図6】リリス(?) シュメール粘土板 紀元前2000年頃 大英博物館蔵

 紀元前2000年頃の『ギルガメッシュ叙事詩』には、女神イナンナの聖庭で悪さをする悪霊リリスの姿もあります。

「天地が分かれ、ひとが創造された後。アヌとエンリルとエレシュキガルが天と地と冥界を平定した後。エンキが冥界に船出し、海が怒りで泡だった後。『その日』、ユーフラテス河畔に植えられ、川の恵みによって大きく育った一本のフルププの木が南風によって倒され、ユーフラテス川に流された。川のほとりを散歩していたひとりの女神が流木を拾い、アヌとエンリルの助言によってウルクにあるイナンナ女神の庭に届けた。イナンナはその木を大事に育てた。自分のために玉座と寝台をつくろうと思ったからだ。
 十年経って木が十分に生長した頃、たいそう残念なことに、イナンナは望みが叶わないことを知った。木の根もとには竜が巣くい、梢では猛鳥アンズーが雛を育てた。そして幹には悪霊リリスが棲みついていた。」(クレーマー版『ギルガメッシュとフルププの木』より)

 その後、英雄ギルガメッシュは、巣くった怪物たちを退治するため、大きな青銅の斧で竜を殺すと、恐れをなした猛鳥アンズーは雛を連れて山へ逃げ、リリスも砂漠へ飛び去ったそうです。

 先妻には逃げられ、後添えは掟破りの食いしん坊。アダムの女運の悪さには、目もあてられません。

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