よそ者たちの中心
このインドアパークから車で数分、沿岸部を貫く国道六号線沿いに、「叶や」というプレハブの仮設ホテルがある。中小企業基盤整備機構(経産省下)の整備事業で小高区の旅館経営者が建てたもので、原町火力発電所の復旧に従事する作業員や、浸水地区の測量を行う測量士といった長期滞在者が宿泊している。市では宿泊施設が不足しており、この日も部屋はほぼ満室だった。
ホテルのフロント脇の「管理人部屋」に暮らす武藤与志則さんも、南相馬市に移住した一人だ。白髪交じりの髭がトレードマークの五〇歳。東京の「劇団昴」に所属する役者だった彼は、管理人と災害FMのパーソナリティの仕事で生計を立てているという。
「僕の場合は、原発事故がなければここに来ようとは思わなかったでしょうね」と彼は振り返る。
「舞台やテレビって照明をじゃんじゃか使うでしょう。だから、東京の電気を作っていた原発の事故を見たとき、その責任は自分たちにもあると強く思い、ここに通うようになったんです」
二〇一一年の一〇月に夫婦でいち早く生活の拠点を移した武藤さんは、年長者ということもあり、「移住者」たちから一目置かれる中心的存在だ。
「夜は暇なのでここに友達を呼んだり、お客さんと話をしたりしています」との言葉通り、震災後に相馬市で暮らし始めた山本裕一さん夫妻が、この日もビールを持ってやってきた。裕一さんは相馬市出身の妻の実家で農作業を手伝う傍ら、原町の「まちなかひろば」でお食事処「歩歩」を経営している。しばらくすると仕事を終えた水口さんもやって来て、「管理人部屋」はちょっとした飲み会の様相となった。
「最初の頃はさ――」
顔を赤らめ始めた武藤さんがしみじみと語り始める。
「どうしてこの街に残った人たちは、今からでも逃げようとしないんだろう、と僕も思いましたよ。とにかく子供たちが可哀そうでね。実は一昨年は僕と妻も塾の講師をしていたんです。インチキ講師でも、いないよりマシだということで頼まれたんだ。するとね、中学三年生の女の子が、妻にこんなことを言うんです。『私たち結婚して、子供を産んでもいいのかなあ……』って。そんなことを子供に考えさせていいわけがないよね」
あるいは――と彼は続けた。
それは南相馬市の学校で唯一津波の被害を受けた真野小学校が、高台にある公共施設で授業をしていた頃のことだ。知り合ったPTA役員に呼ばれて行くと、再開されたばかりの給食は茹でたモヤシ、ビスケット、ロールパンとヤクルトだけという貧しいメニューだった。
「給食は全児童分の食料が揃ったものしか出せないんですね。南相馬産の食品は使えない中で、やっと集まったのがそれだけだった。俺たちは何てことをしでかしてしまったんだ、と思いましたよ」
そうした現状を目の当たりにしながら、しかし彼は「自分のようなよそ者が軽々しく何かを言えない」という気持ちが一方で増していったという。
「確かに街はひどい状態かもしれない。それでも公園の除染を続けたり、お店を開けようとしたりと、少しでも日常を取り戻そうと頑張っている人たちがいる。やっぱり何も言えなくなってくるんだ」
そして武藤さんのような移住者は、日が経つごとに一様にこう実感していった。東京にいるときは中心的に議論されていた放射線量の有無や影響が、ここでは街の抱える問題の一部でしかないのだと。
目前に受験が迫っていても塾に講師がいない。多くの店舗が補償金の影響や人手不足の問題で再開されない。外で遊べない子供たちの体力が低下し、そのために室内公園を作ってもスタッフが足りない……。賃貸住宅の物件や宿泊施設が全く足りていないことも、彼らが直面した問題だった。県が避難者のために多くの部屋を借り上げているため、たとえ空室が見つかったとしても家賃は借り上げ条件の上限まで値上がりしており、震災前の二~三倍が相場なのだ。
例えば――と山本さんが語る。
「街の居酒屋にしてもファストフード店にしても、これでは外から人が集まりようがないんです。三万円の家賃で住んでいる人の隣の同じ部屋が、震災後は六万円する。そうなると、市内ですら怖くて引っ越せないわけですから」
原発事故が収束していない状況では、新たな集合住宅の建設も難しい。街は事故だけではなく、事故後の支援や補償制度によっても二重三重に分断されており、「復興」に向けた身動きが取り難くなっているという一面が垣間見える。