「子供」というか「作品」自慢
不器用で運動オンチで体が弱く、およそダメな子供だった石川遼。その短所を逆に「根気強さ」という長所に繋げ、ゴルフという世界で羽ばたかせた。世の親なら誰もが憧れるような「父親譚」が、具体的なエピソードを交え紡がれてゆく。
「プロを目指すと決めた幼い遼と約束したのは、一旦打ったら、何があってもボールを動かさないということ。趣味のゴルフでは、よくボールをやり易いところへ動かして打ちますが、プロは、たとえどんな状況でも、全て自分が責任を負ってそこから打たねばならない。『アレさえなければ勝てたのに』はダメなんです。『アレ』を招いたのは他でもない自分ですから。そこを徹底しました」なんつってな。「皆さんも、仕事や家庭、ご近所づきあい、そりゃいろいろありますよね。でも『アレさえなければ』とは言えないですよね。与えられた状況は変えられません。理不尽なこともあります。でも、そこから一歩踏み出す権利は、誰にでも等しくあるのです!(暫しのどや顔)」。
……まあ確かに聴かせるが、話術がものすごく上手いというよりは、数打った結果こなれて来た、という印象。それより、話している時の高揚感のすごさの方が印象深い。もう、自分の話に恍惚状態。その表情を見ていると、どうも「出来た子供を自慢する」という、親バカの範疇を超えている気がしてならない。「子供」というより、感覚としては「作品」を自慢してるように見えるのだ。
父親なのに、「ウチの子」とか「息子」「ヤツ」「アレ」等々、通常父が息子を指すようなフレーズを使わず、「石川遼はですね」「石川遼という人間は」「何ぶんにも石川遼は」と、常に妙なフルネーム呼ばわり。何かこう、「息子かわいや」とは異なる、独特の距離感が匂い立つ。父親というより、まるでお気に入りの自作について饒舌に語る芸術家のよう。
講演パンフレットの肩書を「石川遼の父」でなく、あくまで「埼玉縣信用金庫・法人事業部推進役」にしているところにも、そのクセの強さが表れている気がする。そこに引っかかって私もずっと「石川勝美」ではなく、「石川遼父」でこの原稿を書き進めているわけだが。肩書は確かにそうなんだけどさ。「石川遼の父という部分は、あくまで私の人生のほんの一部です」とでも言いたげなこの臭み。いっそのこと「石川遼の父でーすッ!」的な無邪気さがあってくれたら、新潮社も彼とモメずに済んだだろうに。