今年二五歳になるブラッド・クリシェビッチさんは、震災後の福島市で暮らすベラルーシ出身の若者だ。昨年六月に同国の首都ミンスクにある国立言語大学を卒業、現在は伊達市の自動車部品の輸出会社で働いている。
「大学で日本語を学んできたので、卒業前にどうしても一度日本へ行ってみたかったんです」
初めて日本を訪れたのは震災の年の一二月。海外でのボランティアプログラムの一覧表をインターネットで見ていたとき、その中に福島でのプロジェクトを見つけて応募した。
彼はチェルノブイリ原発から約三〇〇キロ離れた、オシポヴィチという人口三万五〇〇〇人ほどの町に生まれた。若い世代にとって原発事故はすでに「歴史」だが、事故のあった四月二六日になると、今でも学校では当時の体験者の日記を読むなど特別な授業があるという。
「鮮明に覚えているのは、当時一〇歳だった子供の日記です。警報の音に感じた恐怖や避難が始まったときの気持ち、泣いていた母親の姿……。授業では生物や自然学習の時間にも放射性物質のことを学びました。なので、チェルノブイリのこともきちんと分かっているつもりです」
ベラルーシの人々は津波や原発事故のあった日本に対して、とても同情的だったという。仙台の姉妹都市であるミンスクには「Sendai Park」という公園がある。園内の時計の前に多くの人々が花束を供え、いくつもの蝋燭の灯りがともされた。
同年一二月に福島県に来た彼は、三月まで地元のNPO「」に所属し、子供やお年寄との文化交流イベントに参加した。
「去年、ベラルーシに一度戻ってからも、日本とのかかわりは続きました。日本の医師や議員、NPOによるチェルノブイリの視察が増え、私も何度か通訳として同行したからです。初めて見た立ち入り禁止区域には、荒れ果てた家や庭がありました。そこに昔は人々が住んでいて、家や仕事を失った。そう思うと、悲しいという言葉では足りない、強い感情を胸に抱きました」
後に伊達市の企業で働くことになったのは、南相馬市で開かれたイベントで知り合った「」の職員に就職先を紹介されたからだ。それは浪江町で津波による被災を受け、工場を伊達市で再建した会社でもあった。取引先にロシア人のバイヤーが多く、彼はその担当者として忙しい日々を送っている。
「大学で日本語を学び始めた頃から、日本とベラルーシの交流を深めることを目標にしてきました。日本ではベラルーシのことを伝え、ベラルーシでは日本のことを伝える。いつまで日本にいるかは運命に任せていますが、いずれはそうした活動をしていければと思っています」