「冥府降下」 『フィッツワーリン詩篇』 イングランド 1350-70年頃 パリ国立図書館蔵
モーセは、旧約聖書のなかで、最も重要な預言者です。奴隷としてエジプトで過酷な労働を強いられていたイスラエルの民を彼地から脱出させ、神から「十戒」の律法を受けとった偉大な指導者。聖書文献学が発展する近代以前は、旧約聖書を記したのはモーセだと信じられていました。旧約聖書の冒頭の五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、すなわちユダヤ教でいう「律法書(トーラー)」を「モーセ五書」と呼ぶのはそのためです。「ヨシュア記」「士師記」「ルツ記」を加えて「モーセ八書」とする場合もあります。
【図1】 ミケランジェロ 《モーセ像》 1513-15年頃 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂蔵
キリスト教では、モーセが神と交わした契約を「古い契約」、イエスの教えを「新しい契約」とみなします。聖書に「旧約」と「新約」があるのはそのためで、モーセをキリスト以前の古い世界=「律法下の世界」の象徴とします。ミケランジェロのモーセ像もその考えにもとづき、長いひげの老人で、「十戒」が記された板を携え、角が生えているのが特徴です【図1】。
じつはモーセの「角」は、聖書の誤訳とされています。「出エジプト記」第34章29節「顔の肌が光を放っている」という一節で使われるヘブライ語の〈קרן〉は、「光を放つ」という意味にも、「角が生えた」という意味にも読める単語。ラテン語訳聖書は訳語を〈cornuta(角が生えた)〉としたため、モーセ像には角が描かれるようになったというのです。