「エバ」 1120-35年 オータン、ロラン美術館蔵
アダムとエバが禁断の木の実を食べる「堕罪」の場面は、キリスト教の教義の要です。ふたりが「罪=原罪」を犯さなければ、それを贖うために救世主がこの世に降り立つこともなかったでしょう。その最重要事件について、「創世記」はやや唐突に語り始めます。発端は、楽園の生き物のなかで最も賢いとされる蛇。ある日、蛇はエバにこう問いかけるのです。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(「創世記」第3章第1節)
「蛇の誘惑」とも言われるこの場面ですが、改めて読み直してみると、蛇がエバに「善悪を知る木」の実を食べるようすすめてなどいないことに驚きます。蛇は神への反感を隠そうとはしませんが、その言葉は巧みです。訳知り顔でエバに話しかけ、神が「真実」をエバたちに隠していると、におわせるのです。蛇が、「どの木からも」と誇張しているのは、エバが否定せずにはいられないようにするための罠でしょう。エバはまんまと罠にひっかかってこう答えます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(「創世記」第3章第2~3節)
エバはまず、創造主の言葉どおり(「創世記」第2章第16節、17節)、園の中央にある木からだけは食べてはいけない、それ以外をわたしたちは食べてもよいんだと、蛇の間違いを正すのですが、食べていけないだけでなく「触れてもいけない」とつけ足すなど、興奮気味。蛇は、そんなエバの心の揺らぎにとどめを刺すかのように、こう断定するのです。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(「創世記」第3章第4~5節)
結局のところ、蛇は一度も果実を食べるよう薦めてはいません。食べても死なないこと、そして、それを食べると賢くなるという情報だけを提供するのです。エバを「そそのかす」のは果実です。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(「創世記」第3章第6節)
もしも目の前に、きらっきら輝く美味しそうな果物があって、「それを食べたら目から鱗が落ちる。別世界が広がるよ」なんて言われたら、食べないでいられるでしょうか。わたしには自信がありません。
案の定、エバもアダムも食べてしまいました。蛇の言葉どおり、直ちに死ぬことはなく、ふたりの「目は開け」ました。裸でいることを恥じ、いちじくの葉をつづりあわせて、腰を覆いました。この一連の物語を「堕罪」と呼びます。英語では〈Fall〉。「転落」です。