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  • [評者]原基晶(はら・もとあき イタリア文学者)()
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時を越える旅――[文]原基晶[はら・もとあき イタリア文学者]
時を越える旅 [文]原基晶

 現代イタリアの映画や小説の中で出会う南イタリアは貧しい。特にこの本の巻頭を飾るシチリア島では、領主のような農場主がいばり、マフィアが暴力をふるい、黒い服を着た農民たちは逃げるようにアメリカに渡っていったのだ。口絵写真の平和な羊たち、次の頁の崩れかけた城壁、そして目次のあとに置かれたパレルモの町を過ぎて、ついに黄金が輝く王宮附属礼拝堂の天井と天蓋の支配者キリストを見たならば、美しい写真に目を奪われながらも、むしろ苛烈な支配を想像する人がいるかもしれない。

 だが、遠い昔、シチリアは豊かだった。この島は、温暖な気候のおかげでローマやトスカーナの食糧を賄っただけではなく、例えばレモンやオレンジをイギリスに輸出して貿易によって豊かな富を築いたことは、あまり知られていない。

 この本は、そうしたことをやさしくぼくらに教えてくれる。それだけではなく、美術史家の金沢さんはパレルモの冒頭で、シチリア島が9~11世紀、アラブ人の支配下にあり、彼らの灌漑技術によって豊かになり、けれどもその寺院は後に姿を消してしまったことを書いてくれている。

 ぼくらはそのあと、アラブ人の後を継いだノルマン人の初代の王、ルッジェーロ2世が王都パレルモに建設した王宮附属礼拝堂に、ビザンツ(ギリシア正教)、イスラム(イスラム教)、ローマ(カトリック)の影響が色濃く残され、また王の間にはアッサム原産のオレンジが描かれていることを知り、写真を見返すことになる。

 金沢さんは各地の美味も紹介してくれるが、そこにもたくらみはある。パレルモ名物の美味そうなモツバーガーはユダヤ人街から生まれたといわれている。その料理のおかげで、その地にユダヤ文化も混じっていることを実感できる。さらに王都から足をのばしてエリチェの遺跡、ヴィーナス神殿跡を訪れれば、シチリア島の文化の基層に、カルタゴ、ギリシアがあることを目の前にする。

 シチリア島の旅が終わると、なぜ北のノルマン人がシチリアに? という疑問が浮かぶ。残念なことに、バイキングの末裔が地上楽園に遠征した理由は分からないらしい。だが、歴史家の小澤さんは、地中海の十字路に国際色豊かな文化空間が現出するまでの複雑な歴史を簡潔に分かりやすく教えてくれる。

 二人の文章は読む人を、時を越える旅に連れ出してくれるのだ。ぼくらは美しい聖堂や礼拝堂、町や自然を眺めながら、ノルマン・シチリア王国の栄華を追って、イタリア半島のつま先のカラブリア、土踏まずのバジリカータを過ぎ、踵にあたるプーリアへとたどり着く。

 実は、イタリアの文学・歴史で生計を立てているにもかかわらず、ぼくはあまりイタリアを旅したことはない。けれどもプーリアにだけは、レッチェ近郊に友人がいたおかげでしばしば滞在し、オトラントやカステル・デル・モンテを訪れたことがある。ダンテ『神曲』の翻訳にとりかかったばかりのあの頃のぼくに、オトラント大聖堂の床のかわいらしいモザイクの動物たちやアダムとエヴァに気づく余裕はなかった。金沢さんの写真と説明を読むと、忘れ物をとりもどしにもう一度あの街に行きたくなる。

 思い返せばオトラントでは、その地がルネサンス期の1480年にオスマントルコ帝国に占領されたことが気にかかり、対岸のアルバニアを見ようとして青い海の向うに目を凝らした。『神曲』にも大きな影を落としている神聖ローマ皇帝兼シチリア王のフリードリヒ2世のことを考えていたからだ。小澤さんが書いているように、その時より200年以上前に生きた、世界の驚異と呼ばれた彼は、多民族国家の王にふさわしくイスラム勢力と対話して聖地エルサレムを奪還した。

 旅の終わりはナポリだ。その街は、教皇庁がフランスのアンジュー家を傭兵にして彼の息子や孫を滅ぼしたあと、そのアンジュー家が支配した王国の都となった。こうしてペトラルカもほめたたえたロベルト王の治世に来れば、遠くルネサンスがぼくらの視界に入ってくる。

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