気になるガウディ 磯崎新 |
私の母校である早稲田大学には、ガウディを初めて日本に紹介した今井兼次先生がいらしたし、今でもガウディ研究者として知られる建築家の入江正之が教鞭をとっている。私も学生時代に入江先生のレクチャーに触発されてバルセロナを旅した。カタロニアの気さくな雰囲気をすぐに気に入ったし、ガウディの建築を見て回り、たくさんのスケッチも描いた。カサ・ミラの屋上から遠方にアイ・ストップとして綺麗にサグラダ・ファミリアが見えたのが印象深い。自作による実に見事な借景だ。しかし最も感動したのは、コロニア・グエルと言わざるを得ない。そのスケール感に圧倒され、過剰なまでに大きく肥大化した斜めの柱を見て、神話的なものを強く感じて身震いがしたのを今でも覚えている。
本書は、モダニズムの巨匠ル・コルビュジエを敬愛する建築家としてもよく知られる磯崎新によるガウディ本である。6つのガウディ建築を磯崎が精選し、それらに解説をつける形での各編とガウディ談議をまとめた2つのショートエッセイがたくさんの美しい写真と共に構成されている。あたかも磯崎新にバルセロナのガウディ建築をガイドしてもらっているかのような読書体験だ。最初から「ガウディが嫌いというより、ガウディが好きな日本人が嫌い」と皮肉たっぷりに言い切る辺りがなんとも磯崎らしい。
まずは40代前半の作品であるボデーガ・デ・ガラーフを通して、ガウディらしからぬモダニズムへの接近を発見し、コロニア・グエルの未完であるが故に、さも時間が止まっているかのような廃墟性について語っている。またバルセロナの観光名所になっているグエル公園をディズニーランド以上のテーマパークとして読み取り、ガウディらしい有機的デザインを駆使してつくられた2つの集合住宅、カサ・バトリョとカサ・ミラを丁寧に解説してくれる。最後には今も尚工事中の代表作サグラダ・ファミリアについて、その工事の内容と進められ方の是非を問うのだ。
本書中で磯崎は、ガウディの表面的なかたちの過剰な装飾ばかりが称揚される狂気のアーティストのイメージに対する違和感から「カタルーニャ・ヴォールト」や「逆さ吊り実験模型」を紹介し、ガウディ建築は構造的合理性を追求したからこその結果だという持論を展開する。そして自身のカタールや上海での仕事におけるコンピュータ・アルゴリズムを使って設計した仕事との関連性と影響について語っている。これはキッチュなまでに非合理的な造形が語られるガウディ論とは正反対であり、新しい解釈だ。
私にとってガウディ建築がストンと理解できたきっかけがある。ガウディが幼少期に目にしたモンセラットの岩山を観に行ったことがそれだ。そこには今にも動き出さんばかりの自然の有機的な造形があった。いつまでも見飽きないその美しい風景のそばでガウディ少年は育ったのだろう。そして、いつしかそうした自然界をデザインの教科書としていった。要するに身近な自然に見立てて建築をつくっていったのだ。確かに一本の樹ほど構造的に合理的なものはない。地面に広く根を張り、太い幹からたくさんの枝葉を伸ばし太陽を抱きしめ、風に揺られながらも安定した状態を保っている。サグラダ・ファミリアの聖堂が静寂の森のメタファーであることがすぐに理解できた。つまり、磯崎の言うようにガウディの建築が構造的な合理性の下に追求されたのであれば、その構造的合理性の先にはモンセラットの岩山のようなスペインの自然がお手本となっていたのだ。ガウディの自然への敬意と深い洞察が身体性を獲得したと言えるだろう。
この本を読んで私は、またバルセロナに行きたくなった。グラシア通りのバールでタパスをつつきながら、ガウディ談議に華を咲かせたいものだ。奇しくも未完であり続けたサグラダ・ファミリアが完成する日も近いというから急がねばならないのかもしれない。