対談者がこの二人で、かつこのタイトルだと、ちょっと身構えてもしまうが、『知的唯仏論』に格別深い含意はなさそうだ。「知的」に、つまり「信仰者のバイアス抜き」に、虚心に仏教を論じてみよう。とりわけその現代的意義(サブタイトル「マンガから知の最前線まで」)について論じてみよう、と。
これまで仏教を囲い込んできた教団には、信仰を最重要視しないこの知的な態度は挑発的に響くかもしれないけれど、大方の人がもはや説教・修行・参禅という直接体験によってではなく、書物・映像・セミナーといった間接メディアを通じてかろうじて仏教に接するようになった現在、その視線はごく当たり前で、受け入れやすいに違いない。
周知のように宮崎は大乗仏教の中観思想などに詳しく、サンスクリットまで勉強したといわれ、対談でもどちらかといえば彼が質問に答える役を務めている。教団による仏教独占が長く続き、習俗化も進むうちに、問おうに問えず、語ろうに語りにくい部分も当然肥大してきて、部外者の疑問は一層あからさまになる。
「仏教はシャカムニを唯一のブッダ(覚者)とする教え(唯仏論)なのに、日本では禅宗以外、シャカムニを本尊とする宗派がほとんどないのはなぜか」「仏教は輪廻転生を認めているのか否定しているのか、どちらなのか」「中世寺院で稚児相手の男色が行われたのは周知のこと。なのに遊郭の花魁道中のように、今も稚児行列が各寺院の大法要で麗々しく行われるのは、どうしてか」 ……。
ところで現代の思想的課題といえば、家族・地域社会・企業体・国家など共同体的生の弱体化と個人の孤立化だ。だからこそ、個人の自由を多少犠牲にしても共同体的生の復興が求められる。仏教にも盛んに「社会に参加する仏教」「生者のための仏教」が要請される。しかし対談者たちは、元来仏教の役割は「生老病死」という決して社会には還元できぬ個人の苦悩にかかわることにあるとして、安易な共同体志向をダンコ退ける。