六、七年、工房で修行した若者が、一人前の顔になって独立していくと、入れ替わるように新弟子がやってくる。弟子の年季は、膝の高さを見ればすぐにわかる。「まな板」と呼ばれる作業台に向かって、胡座をかいて座るのだが、座ることに慣れないうちは股が開かず、膝が高い位置にある。座り慣れた手練の職人は、股が開いて膝が畳にぴたっと付いているものだ。
さて、去りゆく者に送別の辞を述べたり、新入りに心構えなどとうとうと聞かせてやるのは、どうにも苦手で、結局「さいならぁ~」と「がんばろ~ね」くらいしか言いたくない。新しい弟子が仕事を始めると、「座入」という、職人を集めての歓迎会がある。どうしてもそこで、親方として一言ということになるわけで、仕方なく立ち上がる。河井寛次郎の「いのちの窓」という散文集から「暮しが仕事 仕事が暮し」という一文を引いて、「仕事はね、まぁ、いいけどね。暮らしをちゃんとしようね」などと言ってお終い。「さぁ、飲みましょう」。
暮らしとは、食うことと寝ること。いちおう、漆の道を目指してきたのだから、僕がつべこべ言うまでもなく、仕事は精一杯して、自分で勝手に道を切り開き一人前になっていくに違いない。だから仕事の話はしない。仕事場では、隅から隅まで掃除をし、整理整頓を怠らずにいれば、自然と重箱の隅の隅まで気持ちを入れることができるようになる。ところがうちに帰ると、蒲団は万年床、コンビニ弁当とインスタント食品を食べ散らかし、台所はゴミだらけ。それでは困るのだ。僕が、弟子のやった仕事を見ると、どういう暮らし方をしているか、何を食べてるのかまでわかってしまう(少しウソ)のは、やっぱり暮らしが仕事の中に入っていって、目に見える形でそこに現れてしまうからだろう。