食に関していえば、東京は、大阪に敵わない。これは、ミシュランに載る店が、東京に何軒登場しようが変わらないように思える。それは、東京では、安かろう不味かろうという店が平然と商売を続けることができるが、大阪では、「安くてもそこそこうまい」店でなければ、地元の人々に受け容れられることは決してないからである。
その大阪にあって長年、食に関する取材や執筆を続けてきた著者が、大阪、京都、神戸の三都の「食と街」を自らの人生体験を踏まえて語る本書は、昨今のグルメ・ブームに強烈な一撃を食わす挑戦の書でもある。
もちろん、具体的な店名やその店にまつわる逸話などに事欠くことはない。しかし、本書を貫いているのは、「いい店、うまいものは情報ではない」という確固たる信念と、グルメ情報に踊らされながら「賢い消費者」であろうとする「せこさ」に対する嫌悪である。
例えば、「値段が書いていない店は怖い」と正直に書く著者は、一見ではそんな店には行かないという。何故なら、「飲食店は『誰かに連れて行ってもらう』こと、あるいは『紹介してもらう』ことが一歩目」だと考えるからだ。
「いい居酒屋は、昼からやっている店が多い」という著者にとって、そんな店は、「その日その時の『人生の調子』みたいなもの。それが微妙に関わってくる実生活のディテールは、こんな地元の居酒屋を通じて立ち上がり、『わたし』という自己意識に映り込む」。
著者が提唱している「街場」という概念は、確かな輪郭を持った具体的な人間が、働き、食べ、呑み、遊ぶ、豊かな文化的地層を指しているように思える。その「街場」に展開される食文化の多様さと豊饒さこそが、著者の愛惜してやまないものなのだ。だからこそ、「下町のお好み焼き屋は子供だけで行くことができなければならない。けれどもそこにはおっさんやらおばちゃんやらお姉さんやらも食べに来ている店でないといけない。そして店の人は人好きだ」と書くことができる。お好み焼き屋を書くことは「街の喜怒哀楽を書くことなのだ」。
関西の食文化の特徴を「食べるまでの時間を包含した一連のプロセスを、料理の作り手とカウンターを挟んでいかに共有するかに重きをおく」「カウンター的食世界」と指摘する著者は、なによりもこの食世界を愛で、経巡ってきたのだ。
本書には、お好み焼き、たこ焼き、うどんなど大阪を代表する食の他にも、鰻、鮨、焼き肉、餃子、鱧、フレンチと様々な食文化が綴られている。
読み終わると、辛子を混ぜたソースで食べる「四興樓」の「豚まん」や、「一芳亭」の「卵の皮のしゅうまい」が無性に食べたくなっていた。