こちらに移り住んで来た頃は、そりゃあもうお金がなかったので、親子三人どうにか食べていくことで頭がいっぱいだった。何を食べるかと言うと、自分たちで採って来たモノや、小さな畑でできたもの、そして一番有り難かったのは、近くのおばあちゃん達が分けてくれるものだった。
当然のごとくすべて旬の物なので、同じ物ばかりが集まる。例えば初めて筍をいただいて、小躍りして大喜びしていると、次の日には玄関にかさ地蔵でもやって来たかと思うほど、どなたがくださったのか、どっさり筍が届いたりする。それを見て、「どこのいい人がくれたんだろ。」とキョロキョロしていると、すかさず今度は「あかぎさーん。あんた筍いらんかねえ。」と隣のおじいさんがまたまた筍を抱えて持って来たりする。油断していると、あっという間に「オオタケノコモチ」になってしまうのだ。本当にありがたい話。山のような筍を見ているだけで、幸せである。でも、冷蔵庫を覗いても、他の食材は何もないのだ。この筍だけでどうにか食いつないでいかなくてはならないのだった。
知らないということは、恐ろしいけれども、それを知ったときの感動があるので、救われる。(恥ずかしながら、能登に移り住んでからの私は、感動の連続である。)
何しろ、私は結婚するまでご飯を作ったこともなかったのだから、筍に何を施したら、あの美味しそうな「筍ごはん」が出来上がるのか、「若竹煮」が作れるのか、「筍の木の芽和え」がいただけるのか、考えたこともなかったのだ。
まず「茹でる」のだろうと思った。そのくらいは大人なのでわかる。糠と唐辛子を入れて、大きな鍋で茹でるらしい。この毛の生えたような、ちょっと小さな獣のような筍を、洗って、皮のついたまま、ざぶんと鍋に入れて茹でる。鼻歌なぞ歌いながら、菜箸でぷかぷか鍋の中で浮かんでいる筍をつついては、喜んでいた。いつまで茹でれば良いのかは気にもせず。なんか糠まみれになった、この筍はものすごく野性的なのである。