アート

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07 住み手から見た堀部建築|松原隆一郎+堀部安嗣 阿佐ヶ谷書庫プロジェクト




 堀部さんがプロの建築家として出発したもっとも早い時期、「南の家」「ある町医者の記念館」の二枚の写真だけを手がかりに、家内がブランドや口コミにも頼らずその価値を見抜くことができたのは、(私には珍しく褒めておくと)建築を見る目として確かなものがあったからでしょう。
 しかもその出会いは、たんなる偶然でもないようです。自分が書を趣味としていたため、書もなす建築家として白井晟一に関心を持ち、しかし白井建築はあまりに厳格として、中川幸夫の書と融合しうる内藤廣のリノベーション建築に興味を移し、その延長線上で堀部さんの設計に自分の欲していたものを見出したというのですから、堀部氏の建築にたどりつくまでの道のりには筋が通っています。

「阿佐ヶ谷の家」に住んで

 では、私はどう感じたのでしょうか。今回は、堀部氏の設計になる「阿佐ヶ谷の家」(1997、改修)に15年間暮らしてみた実感を手がかりに、「住み手にとっての堀部建築」を考察してみたいと思います。

 堀部氏の建築は、しばしば「静謐」と形容されます。なるほど写真に映し出された家々は、たたずまいからして透明な空気に包まれています。けれどもいったんそこで暮らしてみれば、それは静謐ではあっても「静的」ではないことが分かります。それは極めて「動的」な構造を持っているのです。たとえば、窓。それがどのような技術によるのか素人の私には分かりませんが、堀部さんは窓によって、外の景色が一幅の絵画になるかのごとく切り取ります。窓枠の寸法が少し大きくても小さくてもバランスが崩れるような、絶妙な切り取り方です。そして窓という「額縁」に収められた景色は、天気によって暗くも明るくもなり、季節の移り変わりとともに樹木の葉の色が変わって見えます。






 また居間で南向きの外光を遮断する木製の組子引き戸は、室内に取り込む外光を、一日の内でも淡く濃くまた淡くと変転させます。光の濃さにより、時間の経過が感じられるのです。とりわけ私が「惰眠の間」と呼んでいる部屋は、そうした時間の緩やかな経過が眠りを誘います。
 2階から3階へ上る階段に差し込む朝陽を撮影すると、こんな風に光が変化します。








 ここまで書いたのは外部の自然に由来する変化ですが、さらに不思議に感じるのは居住者が移動した場合の視覚経験です。玄関を入る、靴を脱ぎ曲がって階段を昇る、板の間に入る、南向きの窓から淡く陽が射している…。身体が移動するにつれ眼前の光景も変わっていくのですが、目に飛び込んでくるそれぞれのシーンがやはり一幅の絵としていずれも美しいのです。それは壁の漆喰や畳、据え付けた建具といった構成物だけではありません。同居する居住者も、目に映る情景の一部として溶け込んでいるのです。










 屋外の景色が時刻や季節によって変わり、しかも屋内を移動すると、この変化はよりダイナミックになります。堀部さんの設計になる家は、目に映るシーンの一齣一齣もさることながら、その連鎖に快感を覚えるのです。私の視線はカメラというよりビデオのようで、映画を見ているかのような錯覚に陥ります。この家の印象は、そのように極めて動的なのです。

 家内は「厳格すぎる」という言い方をしていましたが、写真から見る限りで白井晟一の建築からは、住み手との関係で「動く」というより、巌のように「そこにある」という印象を受けます。その点、堀部さんの家は、動く住み手の視線をゆるやかに包み込むのです。
 しかしそうした設計は、どうすれば可能になるのでしょうか。美しいシーンを一つ造ることは、絵心のある建築家ならばさほど困難ではないでしょう。しかしそれを無数につないで連鎖となるよう階段や壁を構成するとなれば、つまりパラパラ漫画の原理で動画にみせようとするならば、設計は一気に困難になります。屋内にある無数のシーンのすべてを美しく仕立て、そのつながりも想定しつつ部屋や階段の設計を行うとなると、複雑さは想像を絶します。しかも法や建築技術の制約も加わるならば、困難さはさらに倍加します。堀部さんは、どうやってこの「動画」を作成するのでしょうか。

「世間」と「自然」を繋ぐ建築

 興味深いのは、堀部さん自身が、意図的に家を創出するのではないと証言していることです。堀部さんは、建築物によって無から何かを生み出すのではないと言います。つまり住み手の視角に映る「動画」は、無から生み出された各シーンをつなぐことによって構成されているのではない。堀部さんはすでにそこにある自然の景色や光、居住者の姿に潜んでいる「魅惑的な秩序」を浮き彫りにするという意識で、家を設計しているらしいのです。彫刻になぞらえれば、材料を組み立てて像を構築するのではなく、大きな彫刻材から木彫像を切り出すような作業ということでしょうか。
 『住宅建築』の特集(2009.12)で、堀部さん自身がこの作業をこう表現しています。
 人を取り巻く世界には二つの世界がある。その世界をあえて言葉に置き換えるなら『世間』と『自然』である。世間は人の感情や営みから成り立つ人間関係の世界。一方自然とは言うまでもなく人の存在以前にすでに在った世界で、世間とは比較にならないほど歴史のある広大で深遠な世界だ。この二つの世界では時間の進み方もその性質も全く異なる。(中略)建築とは本来、世間と自然の二つの世界を行き来して繋ぐものである――(p10-11「建築の居場所」)。
 ここで堀部さんが述べているのは、建築家は建築物を造る、つまり家を無から創り出すのではないということです。建築にとりかかる前に、すでに自然や世間が存在しています。自然は人の登場する以前の「世界」であり、世間もまた人と人の織りなす「世界」です。それぞれの世界には異なる時間の進み方がある。建築は異なる時間を行き来して、それらを「繋ぐ」というのです。
 無から創り出された建築であれば、そこに「秩序」が見出せるとしても、その秩序はそこに止まるものであり静的であって、時間とともに変化するものではないでしょう。というのもひとつの美しい「秩序」を生み出すことは、それだけでも簡単な作業ではなく、だからこそ美しい秩序を「連鎖」させるというのは、気の遠くなるような作業となります。

 それに対して堀部さんは、みずから時間を生みだそうとするのではない。自然には、ひとつひとつのシーンに季節や一日の時間の経過かが織り込まれています。そのようにあらかじめ在る自然と世間からそれぞれの時間の進み方を読み取り、それを浮き彫りにする、それが建築だというのです。時間のラインを生み出すのでなく、すでにある時間の流れを建築によって可視化するということでしょう。この作業を堀部さんは、「高次方程式を解く」ようなものだと形容しています(同p.53「馬込の家」)。
 ここでいう「高次方程式を解く」とは、問いを新たに設定することではありません。施主が提示した混沌とした「自然と世間」のそれぞれが内包する時間の流れを感受し、それらを方程式とみなし連立させて解に形を与えたのが、堀部さんの建築だということです。それを堀部さんは、数学者による定理の発見になぞらえています。「神様の隠しものを見つけ」る作業だ、というのです(p.73対談「対称(シンメトリー)と非対称(アシンメトリー)を往き来する知性」)。

盆栽のような設計

 私としては、こうした堀部さんの設計を盆栽になぞらえてみたい。良い盆栽は、樹木の育つ力を伸ばすことによってしか得られません。それは植物を観察し、その中に良い方向に伸びる秩序を見出す営みであり、しかも世間が「美しい」と認める方向へと導くのです。盆栽師は、樹を針金で縛って盆栽を創るのではないのです。堀部さんの設計が静謐かつ慎ましやかに見えるのは、彼が創造ではなく発見を旨としているからなのでしょう。住み手は素材や環境における自然さ(漏れ入る日光や漆喰の古び方)を時間の経過とともに感じることができます。堀部さんは、たとえば外の自然が季節の移り変わりを示すように窓を切ります。だからこそ、私は「惰眠の間」でまどろむことができるのでしょう。

 以上は私が堀部建築で暮らしてみた実感です。南北をT一族の森と旧家に挟まれ、リノベートされた「阿佐ヶ谷の家」を私が居心地よく感じるのは、阿佐ヶ谷北にあって歴史を刻んできた「自然や世間の時間」がその骨格をなしているからだと思います。いくら優秀な建築家の手になる設計でも、「無から有を創造する」ような建物であれば、じきに飽きてしまうでしょう。実際、バブルの時期に多く建てられたような新奇な建築には、私は陳腐な匂いを嗅ぎ取ってしまいます。それはそうした建築物が、歴史の試練に耐えるだけの時間を意識せずに作られたからではないでしょうか。

街と繋がる建築

 私はもともと個々の建築物よりも、日本の街並みに、いやその劣化に関心がありました。美しい建築物があったとしても、それを電線群が横切れば、名画の額縁にペンキを塗ったように見えます。図柄としての空の構成も考慮せず我先に建てられた超高層ビル群や、近代の遺産ともいうべきビルを「袴」のように穿いて接ぎ木された高層ビルも、醜いとしかいいようがありません。蜘蛛の巣のような電線や林立する超高層ビル、近代遺産的なビルの妙ちくりんな修復を、私は劣化と感じるのです。それらが跳梁しているのは、日本の都市政策が「自然や世間」に潜在する秩序を見出し育むのではなく、逆に無秩序を拡大するようなものになっているいるからでしょう。
 小泉政権時の「都市再生政策」以来、日本の諸都市は大きく変貌しつつあります。そうした都市政策は、日本経済を成長させることを目的として立案されています。都市再生政策とは、高層ビルを次々に建つよう規制緩和し、利潤を生み出そうとするものです。ここで「都市が再生する」とは、「秩序」を排してでも「利潤」が得られるように都市を改造することです。

 奇遇(必然?)ではありますが、家内が「柔らかな詩情を感じる」として堀部さんより先に建築依頼の連絡をとった建築家の内藤廣さんが、こうした都市政策をについて「世論を煽ってマーケットを捏造し、プロジェクトファイナンスを立ち上げ、資金を集めて売り抜ける」ゲームにすぎないと批判しています(『建築のちから』王国社p.87)。
 そうした傾向は東大の本郷のキャンパスにも及んでいて、様式も大きさも色合いもまったく秩序なく研究棟が新築され続けています。私が訪ねたことのあるイタリアのミラノ大学(工科大も)や北京の清華大学の美しさとは、比べるべくもありません。内藤さんも一時期東大で教鞭をとった経験から、東大に「通いながら感じていることは、少しバタバタし過ぎてはいまいか、ということだ。それが都市再生でバタバタしている東京の風景に重なって見える」(同「本郷キャンパスの現在」)と述べておられます。
 学者さんたちは大学では誰が有名な賞を貰ったとかに関心を持つようですが、私がキャンパスで注目するのは美しさです。こんなに無秩序なキャンパスから秩序だった思考が生まれるとは、とても思えないではありませんか。
 内藤さんのこの発言は、コロンビア第二の都市、メディジン市で図書館を核とする都市再生プロジェクトに携わった体験にもとづいています(同、「建築のちから」)。荒廃した同市で内藤さんが設計に携わった図書館に、若者が次第に集まってきて、自発的に本を読んだりコンピューターにかじり付くようになったというのです。「図書館を核として地域が変わりつつある」事実は、目撃した設計者をも興奮させるほどのものでした。
 内藤さんはこの公園図書館の設計に際し、「オブジェクティブな力ではなく、そこを流れる空気や外部空間」を際立たせるように配慮したといいます。建築は、脇役として目立たなかったとしても、人々を励まし集いたくなる場所となりうる力を持つのです。自然や世間とは無関係に「革新的」な高さや装飾を競うのではなく、そこに秩序を見出し街並みや景観として定着させることが、本来の都市計画ではないでしょうか。

 内藤さんや私が都市計画に求めるのは、都市に自然や世間に秩序を見出すことであり、それが長期的には経済も活性化させます。目先の利益を追うような新奇な街は、じきに飽きられるでしょう。堀部さんが意図するのも、「自然や世間」の時間的なつながりを甦らせるような建築です。家内がともに「柔らかな詩情がある」とした内藤さんと堀部さんには以上のような共通点があり、それを私も共有しているのだと思います。

 松原家は、世代のつながりとしては秩序のかけらもなくバラバラになってしまいました。そもそも「秩序」という感覚にしてからが、共有されていませんでした。実家の記憶を留めるものは、いまや万年青やサルスベリ、それに数枚の絵画しかありません。そしてそれらのカケラから新しい秩序の息吹を聞き取ろうとするのが、私にとっての書庫建築プロジェクトです。そのイエは、大きく出るならば、変貌してやまない阿佐ヶ谷の土地で、「白秋の洋館」や「トトロの家」の記憶を継ぐものにもなるでしょう。私自身のイエに対する思いと阿佐ヶ谷に対する理解を、堀部さんはどのように引き継いでくれるのでしょうか。期待は高まるばかりです。



※「工事現場から」画像をクリックすると拡大します。
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