戸建てか賃貸か
老後に書庫を持つことは「男のロマン」だと、誰かが言っていました。
けれども「阿佐ヶ谷で小さな庭に梅の木を植え、万年青の鉢と仏壇も置きたい」となると、ロマンとばかりは言っていられません(梅の木は冬を越せず、枯れてしまいましたが)。当初、この考えの具体的なかたちは漠然としか浮かびませんでした。自宅のローンは来年に払い終えるところで、これからは私たち夫婦の老後と息子の進学のために貯金しなければならない。それゆえ、まずもって無駄遣いではないのか検討しなければなりません。
中古の一戸建てを買うと、どうでしょうか。そこで時間を見つけては不動産屋に寄ってみました。予算を聞かれるので1000万円と答えてみると、「とんでもない」といった返事ばかり。「1500万円クラスの物件でも、動いてないですよ」というのです。けれどもネットで不動産の情報を見てみると、可能性が絶対にないというわけではなさそうでした。
たとえば最近では(2012年7月28日)、南阿佐谷から徒歩18分の松ノ木1丁目に、土地約40㎡、建物46.3㎡の2階建て一戸建てが1750万円で出ています。築後47年(1965年築)、建坪率50%容積率100%となっています。自宅から自転車で15分というところでしょうか。
私が現在、月額4.5万円で賃借している書庫もそれくらいの古さの物件です。こちらは一戸建て、6畳と3畳の1階のみ。そこに学生時代から使ってきたスチールの本棚を17箱入れているのです。46.3㎡は14坪、28畳はあるので、その倍近く本棚が入ると期待できそうです。
2010年に探した時にも、阿佐谷北1丁目、駅の高架下を荻窪方面に7分ほど歩いた文化女子大附属中高の裏あたりに似た物件がありました。コンクリの古い塀と玄関の間に半畳ほどの庭があり、ドアを開けるとすぐ階段になっていて、1階は4畳半と6畳、2階は8畳と3畳。21.5畳で確か1500万円でした。これが相場のようです。
では、月額で賃借するのと一戸建ての購入とでは、どちらがベターでしょうか。現在私は、月額で書庫の賃借に4.5万円、それと仏壇を高井戸の「キュラーズ」という倉庫に1.2万円で預けてあります。5.7万円は年では68.4万円。利子率は無視するとして単純計算で25.6年借りれば1750万円に達します。現在56歳の私が80歳まで生きるなら、一戸建てを1750万で買えば損得はなくなります。しかも仏壇と研究室の本も、かなり収納できそうです。
耐震物件か
そこまでは計算できたのですが、ここからが問題でした。ひとつは、「耐震構造」です。阿佐ヶ谷の駅周辺は老朽家屋の密集地帯で、大震災が来た際には火に包まれる可能性が都内でトップクラスに高い場所とされています。東京都都市整備局がネットで発表している「地域危険度マップ」をご覧下さい。
杉並区の詳細を見ると、なんと1丁目から5丁目までの全域が「建物倒壊・火災危険度ランク4および5」に指定されています。中古住宅だと本棚が倒れるでしょうから、まずは本と心中する覚悟をしなければならない。さらに密集地では火災にも襲われます。中央防災会議の検討によると、これから30年以内に首都圏でマグニチュード7クラスの震災が起きる可能性は70%とされています。さすがに25年以内には、震災は首都圏を襲うのではないでしょうか……。
本の重みに耐えられるか
もうひとつ、老朽家屋には平時でも本の重みに耐えられるかという問題があります。現在の借家ではすべての壁に本棚を置いているため、畳の中央部が少し浮いてきていました。部屋の四辺に沿って重力が高い密度でかかっているため、古い木造の床は耐えきれず持ち上がってしまう恐れがあります。
この件については、ノンフィクション・ライターの西牟田靖さんがネット(マガジン『航』)で「 」という面白い連載をしており、インタビューを受けた私がこの話をしたところ、大工さんに真偽を尋ねてくれてました(「」)。それによると、「柱は下へ下へと沈む一方、(壁を支えるだけの柱と柱の間にある)『間柱』はそのままだから、敷居も鴨居も「へ」の字になって、引き戸の開け閉めができなくなったりする」とコメントをして下さっています。
では、部屋の中央にも本棚を立てればどうでしょうか。私は以前、間借りしていた一戸建て住宅で、部屋の中央にも背中合わせに立てた本棚を平行に4列、並べてみたことがあります。収容冊数はかなりのものでした。柱や梁がしっかりしているなら、中央で床が持ち上がることはないでしょう。しかしその家では本棚の合間を60cmほどにしていたため身体を反転させにくく、しかも下の方棚には光が届かず、本棚をあまり見ることはなくなってしまいました。本棚は1mは間隔を取らないと、使い勝手が悪いようです。そうすると収納冊数が減るし、そもそも老朽家屋でそのように配置したら、全重量からしてとくに2階は床にドーンと穴が開き、崩落してしまうかもしれない。
とすると、なんらかの修復をかけない限り中古住宅に本と仏壇を収納するのは危険です。しかし修復という大袈裟な話になると、家内に隠しおおせるとは思えません。
集密書庫を新築する
私は庭に神戸から梅の樹を移植するのを拒否された件や仏壇を小さくするしかないと言われたことから、家内にはこうした計画を言わずに練っていました。しかし不動産屋をちょくちょく覗いたりしていることに気づかれ、つい話してしまったのです。家内の反応は意外なものでした。「新築すればいいんじゃないの。集密書庫にして」。
のちに分かったのですが、家内は実際に体験してみないと私の言葉が深く理解できないところがあります。今年の夏に神戸市の東出町に祖父の青年期を追ってみたりして、現在てば仏壇や生家の名残にかける私のどろどろした気持ちが少し伝わっているようです。
しかしこの会話は2010年のこと。これは想定外でした。さすがにそれだと、どう計算しても相続した財産をすべてはき出した上に、若干の費用を上乗せしなければなりません。けれども私には、そうした後ろ向きの思考よりも、「集密書庫」という言葉が響いてきました。図書館では、空間の効率を上げるため、本棚をスライドさせて寄せ、間の空間をなくしています。そして本を探す段になると、電気の操作で必要な本のある棚と隣の本棚との間を1.5mほど開けるのです。それならば相当の冊数を収納でき、しかも本棚の下段までしっかり使えます。けれどもそんな大袈裟な装置を民家で設置することは可能なのでしょうか。
「東京R不動産」という、ワケアリの物件にアイデアを駆使し思いがけない光を当てリノベートして魅力を高める不動産業者のサイトでは、学者のために1万冊以上の本を収納する書庫を新たに据えるリノベーションの例を紹介していました。本棚の合間にソファを組み込み、高さも天井まであります。床の中央にも本棚が置かれ、それもを平行に並べるだけでなく、様々な方向を向いていました。しかし、集密書庫となれば、もっと効率が上がるでしょう。
家内はさらに言います。「堀部さんに頼めばいいじゃない」。
これも、心に響きました。私たち夫婦は外注としては堀部さんにとっての最初の施主で、自宅とその増築をお願いし、家内経営のカフェも堀部さんに依頼していました。それら三件はいずれもリノベーションかそれに類するものでしたが、その間に堀部さんは沢山の物件を手がけ、才能に磨きをかけておられました。三件は住み心地に満足していましたので、新築は夢ではあります。「集密書庫付きの新築」を堀部さんに注文したらどんなことになるのか。一・二階を集密書庫にして、三階を仕事場にすれば、快適に収納できそうです。ワクワクする話ではありませんか。
阿佐ヶ谷で土地を探す
ちょうどその頃、取引している銀行から電話がありました。「大きな現金が普通預金口座に入れっぱなしになっていますが、何かにお遣いですか」、と。相続したお金の話です。まだ決断しかねていたので曖昧な返事をしていると、「当社は融資だけでなく、不動産も関連会社でやっているので、物件をご紹介できますよ」と続けるのです。銀行からの紹介だと、不動産の情報が入れば公開する前に優先的に知らせてくれるとのことでした。飛び込みで訪ねた不動産屋が口を揃えて「物件は動いていない」と言うのは、公開前に契約が決まっているということなのかもしれません。
そこで銀行から不動産部門のHさんを紹介してもらいました。この方は実にマメな人で、さっそく中杉通りを鷺宮に寄った「下井草」の物件を紹介してくれました。これは自宅から自転車で10分もかからない更地で、気に入りました。
ところがいよいよ契約しようかと検討を始めた矢先、Hさんが息せき切って「あの土地はダメです。危ないところでした」と電話をかけてきました。その土地は隣の土地と一体で所有されており、部分だけが売りに出されていたのですが、杉並区は条例により平成16年から「敷地面積の最低限度規制」を導入しており、分筆して規制値未満(建坪率が60%なら60㎡、50%は70㎡、40%は80㎡、30%は100㎡)となる土地には新築の許可が下りないというのです。それまで自分でも何件か物件を見ていましたが、狭小でもすでに家が建っている土地に改築する分にはおとがめはないが、土地の細分化に相当する物件はダメだというのです。
こういった具合ですから、自宅から自転車で行けるさほど遠くない場所という条件をつける限り、そもそも私の計画は実行不可能かと思えてきました。あの土地に出会うまでは……。
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