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03 実家を売却する|松原隆一郎+堀部安嗣 阿佐ヶ谷書庫プロジェクト




空き家となった実家

 2008年に父が亡くなり、その家を私と上の妹、義弟(正確にはその二人の子ども)が相続しました。敷地は150坪あったのですが、阪神淡路大震災後に父はその中央部に自分の住まいを新築していました。父は知人に借金をしたまま放置していたので、土地の一角を裏のお宅に買っていただき、弁済しました。

 相続に借金が含まれるのも、珍しくはないでしょう。しかし弁済は早く済ませなければならず、そのために土地の一部を急いで売るとなると、なかなか面倒です。というのも土地全体はなるべく高値で売りたかったからで、それにはどうしても時間がかかります。こうした時に、不動産屋の友人がいると便利です。小学校の同級生のM君が魚崎駅前で不動産屋を営んでいるのですが、彼には不思議な才があります。駅前を顧客や知り合いが通りかかると、人なつこい関西弁で世間話をし、そこから家庭の細々した情報を引き出すのです。彼に精密に記憶された情報群は、町内の誰がどのような資産状況にあるかにまで及びます。そして私に「あのお宅は家業がうまくいってるから、隣の土地を他の人に買われるんやったら、自分とこにしたいんとちゃう?」と進言してくれました。
 半信半疑で裏のお宅に話をもちかけるとそれは本当で、縁もあってか土地を買い上げていただき、借金問題は解決したのでした。裏のお宅には父が生前にお世話になったらしく、週に一~二度はふらりと現れ、茶の間の主人の座にどっかと座り込んで茶飲み話をしていったといいます。
 そして残されたのが、仏壇と墓とアルバム、映写機が天井の穴から覗く部屋を有する家付きの土地です。この家は角を切り取られた土地の真ん中に建っているため、土地を三分割してその一つに家を収めることは不可能でした。


家制度と遺産相続

 「長男が実家を継ぐ」という観念は、明治31年に制定された民法では公式のものとされていた家制度に由来しています。戦前には、家制度により戸主、通常は長男が遺産の大半を家督として承継していました。戸主は同時に仏壇や墓の管理も継承し、法事を行う義務を負っていました(祭祀承継)。モノとしての財産と人の縁としての「イエ」の双方の相続者だったのです。戸主の権限が強かったということですが、仏壇や墓を継ぐのに維持費がかかりもするのですから、財産も合わせて承継することがそれはそれで合理的な方法ではありました。

 しかし昭和22年の民法改正で家制度が廃止されたため、現民法では祭祀承継と相続財産を切り離し、祭祀承継は先代の遺言によって指名を受けた者が行うことになります。つまり長男が墓や仏壇を継いだとしても財産は兄妹で均等に分配されることになったのです。祭祀財産としての墓や仏壇には維持費がかかるのですから、その負担も平等でなければ筋が通りません。遺産の分配は現民法にもとづき平等だが、墓や仏壇の維持は慣行にもとづいて長男だけが強いられるという矛盾が起きているのです。

 家制度の廃止自体は、時代の趨勢ではあったと思います。「長男が実家を継ぐ」というのは実家の家業が安定していることを前提としており、庄屋などであれば田畑や土地が代々引き継がれていきます。しかし祖父の会社のように家業が立ち行かなくなることが珍しくなくなり、長男といっても別の職に就くことが多くなると、地元で就職しても転勤もありますから、実家に住めるとは限りません。しかし祭祀を継ぐなら、実家も残してそこでやりたいと考えたくなります。


実家を残す方法

 私自身は仏壇とともに実家を残したかったので、当初はいろいろと模索しました。賃貸に出せば家は残りますが、仏壇を置いたり泊まりたいとなると、一室だけは自分たちのものとして他の部屋を貸すということになります。けれども「仏壇のお守りをする」ような家の借り方をしてくれる人は、妹たち親族も含め見つかりませんでした。
 そこで私は、とりあえずは三ヶ月に一度ほど東京から都合をつけて行くことにして、実家を放置しておけばどうかと考えました。妹は火事や泥棒があったらどうする、近所に迷惑だと心配します。最近では、実家が空き家になるケースが増えているため、管理会社というものがあります。月に一度、郵便受けをチェックし窓やドアを確認し、庭掃除などしてくれ、外回りだけだと3000~5000円、室内までだと5000円~1万円が相場だそうです。

 けれども父が亡くなってしばらくすると、妹たちはいよいよ実家をきれいさっぱり売却し、代金は平等に分配して、墓と仏壇は私に維持することを求めました。慣行にしたがって長男が祭祀承継し、しかし財産は平等に分けよということで、これは前述のように不合理な話です。しかし父の生前、我が親族は法も道理もないかのような諍いに明け暮れるばかりでしたので、私はこれ以上の無駄なもめ事にはかかわりたくありませんでした。父は遺言で祭祀承継者を指定していませんでしたが、それでも私に祭祀を承継せよというのなら、やり方くらいは私の独断に委ねられるべきでしょう。私はそう理解することにしました。
 そこで渋々ではありますが、妹が見つけてくれた新築分譲も扱う名古屋の建設会社に実家を売却することとなりました。最終的に実家は更地になり、跡地には五軒の建て売り住宅が建てられ、私の手元には売却代金の三分の一が残りました。M君によれば、この売却総額は神戸の業者が出せる上限よりも2000万円も高いそうです。それが、名古屋に土地バブルでも生じているのか、この業者によほどのノウハウがあるせいかは分かりませんでしたが。

仏壇と思い出のモノを残す方法

 しかし実家を解体し産廃として廃棄するとなると、思い出はすべてがなくなってしまいます。そこで私は、実家の売却が完了してしまうまでの期間に、庭の木々や大きな石をできる限り運び出したいと思うようになりました。私が子どもの頃に登って塀を越え、お巡りさんに叱られたりした「松原」の「松」の樹は4mはありますので東京の家に持ち込むことは無理ですが、切り捨てられるくらいならいっそ夜中にこっそりと住吉川べりに穴を掘り、移植できないか。住吉川上流の白鶴美術館よりもさらに上流の川岸ならば、松の一本くらい植えても分からないんじゃないか。そう妄想するほど、庭の一部だけでも残したいという思いは募りました。

 それで、別荘を近所に買うことを検討してみました。どこか値下がりした中古マンションでも買って仏壇を置こうということです。そうして何軒か見て回りましたがその中には、祖父が昭和8年から住んだ千坪の家の隣のマンションも含まれていました。窓からは川が一望でき、吹き抜ける風も爽快です。そこで気づいたのですが、私は定年を迎えれば大学の研究室に置いてある本がごっそりと戻ってきます。もし関西に次の職が見つかることでもあれば、そこに本を置いて暮らすのも悪くない--こうして、書庫と別宅を兼ねるという案が湧いてきたのです。
 ところがこの物件の場合、問題がありました。価格こそ1000万円ほどと手頃なのですが、1970年代の物件であるため老朽化しており、修繕の積立費が月々に3万7000円もかかるというのです。この辺りの物件は、多くが似た条件だといいます。私はすでに東京の自宅近くに書庫を4万5000円で借りており、頭金の1000万は相続財産で賄うとしても、それ以外には月々の出費はできません。他のマンションも探してみましたが、わざわざ別荘として取得するほどの魅力がある部屋はみいだせませんでした。


庭の木と石を残す方法

 こうして私は魚崎に住まいを持つという案も、断腸の思いで放棄することとなりました。そこでせめて梅の木を根こそぎにして東京の自宅に植えたいと思うようになります。しかしこれも家内には拒絶されます。息子が小さかった頃に植えたカリンが大きくなっており、庭は自分が管理しているので余計なものは植えたくないというのです。それで我が自宅に実家の思い出を移すことはかなわなくなりました。

 仕方なく私は、売却まで毎週のように新幹線で行き来するたびに、梅の枝や万年青(おもと)は鉢植えにして、サルスベリは生木でなく切り倒して「ウロ」の部分を東京に持ち帰りました。
 さらに大きな庭石が何個もあったのですが、運べないかと造園業を営む友人のH君に相談してみました。しかしこれも相当に困難だと分かりました。庭石は嵩の割に重みがあり、350kg積載の軽トラックではまず運べません。小さくとも2tのトラックになるのですが、それに何百kgかの石を積み込むにはレッカーが必要で、しかしレッカーや2t車は庭には入れないので、そこまで丸太を絨毯のように敷き詰め、庭石を滑らせて運ばねばなりません。そうしたことは専門知識が必要なので、2t車で東京まで運ぶ人件費や車両費も含めて何十万円かはかかるというのです。これも断念せざるをえませんでした。


仏壇と木を東京へ

 こうしたやりとりを経て、私にはある考えが温泉の熱湯のようにふつふつと湧き出てくるようになりました。「神戸で買おうと思った仏壇と本のための別宅を、阿佐ヶ谷で探そう」。魚崎に拠点がなくなることには胸に穴が開くような疼痛を覚えますが、仏壇と万年青の鉢、サルスベリのウロを収納したい。いくばくかの資産は残ったといえ、仏壇以外には鉢とウロだけというのは、祖父の仕事からすれば情けなさすぎる。そこにこれまでの書庫の本と研究室の本を合体させよう。こう考えることで、私の故郷に対するこじれた思いは成仏するかに感じられてきました。
 母が亡くなった時に得ていた遺産は、すでに家内がかねて熱望していたカフェを開業する足しとして使っていました。実家を売却した遺産の方は、「松原のイエ」のためだけに使いたい。
 父は私たちに金持ちだった過去しか喋らない人でしたが、私は父の遺品から出てきたアルバムや戸籍から来歴を調べ出し、自分にとっての「松原のイエ」という観念を持つに至っていました。そして「松原のイエ」の鎮魂をも目的とする「書庫と仏壇の家」を阿佐ヶ谷で探し始めるのです。2010年のことでした。



※「工事現場から」画像をクリックすると拡大します。
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