アート

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02 家を継ぐ|松原隆一郎+堀部安嗣 阿佐ヶ谷書庫プロジェクト




神戸・魚崎中町の生家にて、母と。1959年頃


「イエ」のその後

 新築する家に納める仏壇の主である祖父は、満州事変や朝鮮戦争をきっかけに大成功したものの、会社を維持することは不得意だったようです。最終的には戦後に創設した製鉄会社が自主経営できなくなり、私は神戸に戻って家業を継ぐという、家族から望まれた路線からは解放されることとなりました。
 そこで私は冶金工学科に進学することは急遽取りやめ、改めて勉学に打ち込むようになりました。そして都市工学科を卒業、経済学部の大学院に進学して博士課程を修了、東大教養学部に職を得て現在に至ります。それは松原のイエの没落であるとともに、私が解放される過程でもありました。私には、長男でありながら実家に戻る必然性が突然になくなってしまったのです。また、定年までの住まいが東京周辺に決まりました。しかしそのせいで、実家をどうするかが問題として浮上したのです。
 以下は私の個人的な例にすぎません。しかし家業を継ぐとか実家近くに職を得たり転勤を免れる方が昨今では稀でしょうから、現代日本において実家をどうするかは多くの家庭で悩みの種になっているはずです。また仏壇が宙に浮いてしまうことも、珍しくはありません。独居老人の孤独死が増えているといわれますが、それは親の代と子の代で別居が進み、連れ合いを亡くした親の一方が独居状態になることの必然的な結果です。そして独居老人が亡くなると、子どもたちのうち仏壇を誰が引き取るかが問題になるのです。


私の父とイエ

 家を新築するに当たり、施主には家系の歴史や人間関係に由来するさまざまな思いがあります。我が家の場合、一つには父の性格に難があったせい、もう一つは私が十代からの東京住まいで人一倍故郷に執着があったために、実家をどう継ぐかが厄介な課題となっていました。
 まず父について。祖父が亡くなり、「松原」の仏壇や墓、そして遺産は一人っ子である父が継いでいたのですが、この原稿を書くために祖父の若き日の足跡を追ってみて、父は祖父が苦労して成り上がった時代を知らなかったのだろうという結論に達しました。その苦労を思わないせいでしょう、父は人とのつきあいよりも見栄を優先する癖があり、家族においても終生、世代を超えたつながりについて理解を示しませんでした。
 今にして思えば、祖父は私には託すようなことを言いながら、父についてほとんど期待するような発言をしませんでしたから、諦めがあったのかもしれません。祖父はたった一人の時でも会社勤めしたり大企業の下請けの地位にあろうとはしませんでしたが、対照的に父は、みずから収入を生み出すのではなく、祖父が湯水のように降らせる金や会社に依存していました。
 父は一方で祖父の遺産を独占するため、他方でそれを誇示しようとするため、親族ともいちいちトラブルを起こしました。祖父が実家である山口の親戚に財産を分けるからとそちらとは絶縁、祖母の実家とも行き来がなく、母の実家とは訴訟を争ったことすらあって、私たち兄妹(私と二人の妹)には、親戚とのつきあいがほとんどありませんでした。私に対しても命令を聞かないと仕送りを切るというので、私は大学院に進学した時点で仕送りを断ることとなり、さらに結婚についてもさしたる理由もなく反対するので、祖父が亡くなった頃にいったん絶縁しています。

 私が3歳の時、祖父は父に住吉川にほど近い魚崎中町の旧家を与えました。小津安二郎の『麦秋』にでも登場しそうな縁側や洋風の応接間が郷愁誘う造りの「昭和の家」で、現存する家でいえば東京・練馬の江古田駅近くに現存する同潤会一戸建て分譲住宅(「佐々木邸」)によく似ていました。私が18歳まで過ごしたその家が、私にとっての「生家」です。


震災前の生家にて、上の妹と。1963年頃


阪神淡路大震災による
生家の全壊と再建


 1995年1月17日、実家を阪神淡路大震災が襲いました。周囲の家々とともに、その生家が全壊したのです。両親と上の妹は無事でしたが、近所に住んでいた下の妹は亭主と子供二人を残して亡くなりました。私は二日後に自転車を担いで駆けつけ、7年ぶりに両親と再会しました。そして父母は、義弟が仕事場近くに求めた借家に身を寄せることとなりました(上の妹は名古屋在住)。しかしふた月ほどして母は不幸な亡くなり方をし、父は全壊した神戸の実家を再建すると言い始めます。父は68歳。母亡きあと、父を止める者は誰もいなくなっていました。
 しかしこれは私にとっては聞き捨てならない問題でした。私はすでに二十年は東京住まいであったため、生家や近所の風景には抜き差しならない愛着を持っていました。思えば震災前の家にせよ、引っ越してきた1960年代は板塀で、私はそちらが好きでしたが、父は泥棒が入ったらと心配して、石組みの重苦しい塀に改築していました。子供の一人一人に部屋を与えようと木造の母屋に二階を載せたり吹き抜けの天窓を付けたりと改築も繰り返していましたから、震災前でもすでに私の生家は原形から離れてはいました。しかしそれでも洋室の応接間や廊下や庭は面影を留めており、私の古い記憶の背景をなすそうした家屋が全壊したのです。

 一人で住むとはいえ家を再建するなら、残った家族、すなわち私や上の妹の意見は入れてもよいはずです(父は妹の部屋を勝手に一室造っていました)。現在、どう住むかだけではありません。大きな仏壇は将来どうするのか。東京の拙宅にはとても入るスペースはありません。
 私はできることなら、いくらかでも以前の家の名残のある家が建ち、そこに仏壇を置いて将来に私が継承することを望んでいました。その家が別荘のような使い方になったとしてもです。けれどもそれには越えなければならないハードルがありました。私は三人兄妹ですので、父が亡くなれば妹と義弟が土地家屋を売りたいと言い出す可能性があります。それでもなお、家と仏壇を残すにはどうすればよいのか。私はいろいろと策を案じた結果、父に「いずれ相続の折に兄妹三人で分けなければならなくなるから、三等分した土地に収まるように上物を建てて欲しい」と言ってみました。それならば他の二人が土地を売っても、私は家付きで三分の一の土地を相続できるからです。
 しかし反応は案の定でした。自分の死後に家屋や仏壇がどうなるか(というか、そもそも明日に何が起きるのかにも)まったく関心のない父は、「不愉快なことを言うな!」と激怒、再び親子の関係は絶えることとなりました。そして父は大手ハウスメーカーに依頼して97年に150坪の土地の半分近くに8DK2階建ての広い家を建て、気ままな一人住まいを始めます。電気代だけで4万5000円もかかるなど維持費を気にすることもなく、自分が動けなくなる未来を想像もせず、それはそれで幸せに暮らしたのだと思います。「大きな家を建てること」、それだけが父の面子を満たしたのです(誰も訪れはしないのに)。

 そうして、新しい家が建ちました。最近では、実家を処分し解体する人から依頼を受け、思い出の深い柱の木等を切り出して、彫刻で椀や小物入れを作ったりする作家もいるといいます。家というモノには、それほどに格別な思いが付着しています。私ならば瓦礫を一部でも使ったでしょう(もっとも倒壊家屋の解体撤去は公費で行われたので、細かく注文をつけなかったのは父の意向とは言えません)が、震災後、父は元の家の資材はすべて廃棄して、大きな映写機とスクリーン、オーディオ作り付けの家を建てました(数千個収納の「プラモデルの部屋」も併設)。

 父にしてみれば、回帰する場所があるとしたならそれは住吉川沿いの戦前の家であり、大和電機製鋼であって、それがプライドの核をなしていたのでしょう。それらが喪われた後となっては新築の大きな家でCDを聴きスクリーンで映画を見るくらいしか楽しみはなかったのかもしれません。祖父から譲り受けたものは、物理的な家屋にせよ人と人のつながりとしてのイエにせよ、次世代に引き渡すようなものではありませんでした。
 青木の邸宅後に祖父が住んでいた家も相続していたはずですし、会社の株や退職金も持っていましたが、父は散財癖からそれもすべて失い、2008年9月に亡くなります。最後の一年は自分で身の回りのことができなくなり、旧知の町内会長さんから知らされて、私は父を神戸の介護施設に入れ、毎週のように見舞うようになりました。そうした折りには見慣れない「実家」に泊まったのですが、玄関の松の木や梅、南天やアオキなど庭の植木には私の育った家の面影が感じられたものの、母屋の「ヘーベルハウス」には記憶の手がかりはありませんでした。


生家と街並みの記憶

 私がモノとしての実家の建物や近所の景観に人並み以上の執着を持った理由は、もうひとつあります。過去について喋ったときに、それを事実として承認してくれる他人がいて、私の記憶は妄想ではなくなります。イエは、最低限の事実を事実として認定してくれる人の集まりです。しかし人と人のつながりが体をなさないほど無秩序であったせいか、松原家には事実を事実と証言する人すらいませんでした。

 たとえば妹たちは、東京へ出て行ったのは私の自分勝手だと言います。しかし灘校入学も含め、祖父や父母の意思が九割五分を占めていました。私は後押しされて進学し、上京したのです。しかも1970年代半ばの国立大学は年間の授業料が三万円、私にかかった費用は微々たる額です。そのうえ私は院生時代からは仕送りも断り、自活していました。そんなことは全員が了解していたはずなのに、私を責めるのです。
 また人は売り言葉に買い言葉でつまらない争いを起こすものですが、法事や墓参り、結婚式といった「イエ」にかかわる行事でもあれば、顔を見せたり挨拶をしたりしてゆるやかにでも関係を続けるでしょう(寅さんだって、そうしていました)。ところが父は、法事だけは行わないと先祖に申し訳ないとか、さすがに息子の結婚式には出ないとまずいとかいう感覚も持ち合わせず、ささいな、というか他人にはどうでもいいようなその場限りの面子の方をイエよりも優先し、嘘や間違いを言うのです。私は義弟の兄妹が13人と聞いていましたが、実は4人と知って仰天したことがあります。
こうして私は次第に証言には期待しなくなり、生家の記憶や街並みといった「モノ」に執着するようになりました。それらだけが自分の記憶を支えるかに思えたからです。

 そう言えば、私が喪ったものがもう一つあります。子どもの頃によく通った魚崎の浜の風景です。神戸市は戦後、山を崩しその土砂で海を埋め立てました。それにより、私たちガキどもが「テンコチ」を釣った浜は、コンクリートの塀のみを路上に残す港湾地帯となりました。酒蔵の黒塀も、多くが震災でなくなってしまいました。
 街並みや景観に対するこうした私の執着は、「ノスタルジー」と一蹴されるかもしれません。しかしそれを嗤う人は、ポーランド市民がナチスの空襲で灰燼に帰した「ワルシャワ歴史地区」の住民が空襲前の家や街並みの全体を写真や都市風景画を頼りに正確に復元しようと執念を燃やしたことや、福島県では高齢者が放射能濃度が高くとも故郷に帰りたいと願うことを、同様に嗤えるのでしょうか。かけがえのない記憶というものがあるのです。
 私は戦後日本が経済を優先したため景観が悲惨なまでに劣化したことを告発する本(『失われた景観』PHP新書、2002)を書きましたが、その際念頭にあったのは、山を削って海を埋める、震災があれば巨大ビル群を林立させて「復興したと称する神戸の都市経営であり、急激に変貌していった魚崎の町でした。


残された仏壇と写真

 ともあれ父が死んだ後、妙に大きな家と(一部は父が残した負債を弁済するために売却した)土地、そして「仏壇は守ってくれや」という祖父の声が私には残りました。祖父の代からの写真は段ボール2箱あり、それらが私たちにとって継ぐ「イエ」となったのです。

 私には父母に対し赦せないことが多々ありますが、彼らにしても強大すぎる祖父の存在に人生を翻弄されただけなのかもしれない、私が家を新築するなら、その家は我が父母の鎮魂の役割も担ってくれるかもしれない、最近はそう思うようになりました。建築家には関係ない話ではありますが、新築の家に施主が託する思いはかくも複雑であり様々です。それを知っていただきたく、今回も私事を連ねました。


※「工事現場から」画像をクリックすると拡大します。
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